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RONNIE LANE

11. He is an April Fool ! -逸話を少々-

 Ronnie が客演した作品を調べてみました。おそらくまだ他にもあると思いますので発見し次第、追加します。

He is an April Fool !

 Ronnie Lane は1946年4月1日に英国ロンドンはイースト・エンド地区の Plaistow というところで生まれました。フルネームは Ronald Frederick Lane 。

 The Who の Pete Townshend と共同制作したアルバム "Rough Mix" に "April Fool" という曲もあり、Ronnie は「彼女は言った ~ わかっているわ、明日はあなたの誕生日、あなたはエイプリル・フール」なんて歌っています。また、Ronnie の死後に出た編集盤にも "April Fool" というのがあります。

 ちなみに英和辞典によれば、本来 April Fool とは、4月1日にかつがれた人を指すのだそう。

 なお、Ronnie が亡くなったのは1997年6月4日、米国コロラド州トリニダードにて。51歳でした・・・(悲)。

Plonk

 Ronnie のあだ名。

 その由来は諸説あって、はっきりしません。Ronnie がバンドを始めた10代のころ、Small Faces 以前についたものだそうです。

 以前出ていた Ronnie のCDボックス・セットの題も "Plonk" でした。内容は "Anymore For Anymore""Kuschty Rye""Tin & Tambourine""Lucky Seven" の4枚組だったとか。

The Passing Show

 Faces 脱退直後に Ronnie が自身の新バンド・Slim Chance を率いて行った英国ツアーのことです。

 Ronnie の発案により、Slim Chance だけでなく、道化、猛獣使い、踊り子(当時の Ronnie の奥さんがカンカンダンスを踊ってたとか)、火吹き芸人なども伴ってキャラバンを組んで、サーカスとコンサートを一つにしたようなショーを各地で行う予定でした。会場には組立・分解される大型テントが使われたそうです(その設営には Slim Chance のメンバーも駆り出されて大変だったそう・笑)。

 ツアーは1974年の5月末に始まり、ショー自体は好評だったのですが、興行先の自治体との対応や安全対策の問題、加えて経済的な困難がのしかかり、その年の夏の間に頓挫してしまいました(無念)。

 当時の様子は映画 "The Passing Show: The Life and Music of Ronnie Lane" の関係者の談話により知ることができますが、実際のショーの映像などは存在しないようで、今となってはどんなものだったか想像することしかできません・・・(ますます無念)。

Christmas at The Fishpool

ショットガンを構える Ronnie(アルバム One For The Road から)

 Ronnie はブラックなジョークを多発する人だったそうですが、彼の義理の娘にあたる Lana さんの思い出です。

 アルバム "One For The Road" には Ronnie がショットガンを構えている写真がありますが、これは農場で鳥を追っ払ったりするために使っていたそうです。

 で、あるとき、Ronnie はこの銃を持ち出してきて、いかにも怒っているようなふりをしつつ、煙突の下のところにイスを置いて座って、それから Lana さんにこう言ったそうです。

 「今年のウチのクリスマスは無しだ! これからこいつでクソッタレなサンタクロースのオヤジを撃っちまうからな!」

Son Of Stanley Lane

 Ronnie のお父さんが Stanley Lane 。 "Majic Mijits" に "Son Of Stanley Lane" という曲があります。思いっきりそのまんまですな、またしても・・・。

 ある時、お父さんが「ギターを覚えるんだ、そうすればいつでも友達がいっしょだぞ」 とRonnie に勧めたことが、彼が音楽の道に進むきっかけになったそうです。

 また、Faces 時代の Ronnie の名曲 "Debris" はお父さんに捧げたもの。

 Ronnie にはお父さんと同名の Stan というお兄さんもいました。Small Faces 、Faces でいっしょに活動していくことになる Kenney Jones を Ronnie に紹介してくれたのが、そのお兄さんの Stan 。

 Stan がらみでは Small Faces の "Ogdens' Nut Gone Flake" に "Happiness Stan" って曲がありますが、こちらの Stan はこのアルバムでナレーションを務めてくれた Stanley Unwin にちなんでつけたものだそう。

Slim Chance

 Ronnie が Faces 脱退後に作ったバンドの名。直訳すると「わずかな可能性」、つまり「一縷の望み」って感じなのでしょうか?

  "Anymore For Anymore" から "One For The Road" までの3作品を Slim Chance 名義で作っていますが、メンバーはかなり入れ替わっており、3作すべてに参加しているのは Ronnie だけ。

 4作目になる "See Me" ではなぜか Slim Chance を外して Ronnie 単独の名義になっていますが、これは多発性硬化症発病にショックを受けた Ronnie が一時農業に専念しようと考えて Slim Chance を解散してしまったことが関係しているように思われます。 "See Me" の頃の Ronnie のバンドは Big Dipper(意味は「ジェットコースター」か?)と呼ばれることがあったようですが、これは基本的には "Rocket 69" の面子を指しているようです。

 アメリカ時代はバンドのメンバーが流動的だったこともあってか、単に The Ronnie Lane Band/Group とメディアからは呼ばれていたのですが、Ronnie 自身は親しい人に向かって「心の中ではいつも自分のグループのことを Ronnie Lane and Slim Chance と呼んでいる」と話していたそうで、こだわりのある名前だったのでしょう。

Small Faces -> ???

 バンド名といえば、Small Faces は Steve Marriott 脱退、Rod Stewart・Ron Wood 加入の後 Faces となりましたが、この変更について Ronnie は日本の雑誌インタビューに答えて「(そこそこ背の高い Rod と Ron が加入した)その時点でスモールという顔じゃなくなったんでとった」と語っています。

 ところで Faces としての1枚目のアルバム "First Step" ではアルバム・ジャケットのバンド名がなぜか Small Faces と表記されているのがあります(ちゃんと Faces となっているものもあり)。

 別のところでも書きましたが Rod と Ron が加入した後、一時 Quiet Melon という名前で活動したこともありました ので、バンド側は別の名前を新たにつけるつもりでした。一方、契約するに当たってレコード会社はどうやら知名度の高い Small Faces がいいと主張したようで、Ronnie によると「最初にやったいくつかのライヴではSmall Facesという名前で呼ばれていたんだけど、すぐに "Small" を外した」ということです。「ワーナー・ブラザース・レコードは俺たちに Small Faces のままでいて欲しかったんだ。くそくらえ! 最初は契約の前金を得るためだけにイエスと言ったんだけど、すぐに外したんだ。」

 それ以前、Ronnie はバンド名を Slim Chance にしようと他のメンバーに提案したらしいのですが、Ian McLAGAN や Kenney Jones は賛成しなかったとか。

Multiple Sclerosis

 多発性硬化症の英名です。 MS と省略されることも多いです。

 この病気についてはわたしが参考にさせていただいた下記の他、ネット上に日本語で情報を掲載しているウェブサイトがいくつかありますので、そちらを参照されるとよいかと思います。

 Ronnie のお母さんもこの病気に苦しんだそうです。Kenny Jones はロンドン・イーストエンドにある Ronnie の実家で、彼女の階段の昇り降りをよく手伝っていたとか。病気自体は遺伝性ではなく、罹りやすい体質が遺伝すると考えられているそうです。

 Ronnie が最初に病気の兆候を感じた(手に麻痺がきたとのこと)のは "Rough Mix" の頃だそうですから1977年前後でしょうか。この頃制作が開始されていたアルバム "Self Tapper" の計画は中止になります。

 多発性硬化症と診断されたのが1979年、 "Rocket 69" のライブが収録されたのは翌1980年で、その映像ではまだ元気そうな感じなのですが、すでにかなり症状が進行していて、ピックが持てなくなったりと演奏に支障が出ることもあったとのこと。

 1981年の "Majic Mijits" 収録時にはギターが弾けなくなっていてボーカルのみの担当となっています。

 さらに1983年、 "The ARMS Concert" に出演した頃には車椅子が必要な状態となっており、映像でもだいぶ体が弱ってしまった様子が見てとれます。

 1984年に Ronnie はアメリカ・テキサス州ヒューストンに移住し、翌年、同州オースティンに引越して1987年には公演活動を再開しています。しかし、この頃にはあちこちの筋肉がうまく動かせなくなっており、彼には付き物だったお酒も止めざる得なくなったということです。

 働くことができない上に契約上の問題からかつてのヒット曲の印税も払ってもらえないことがあったため、当時の Ronnie には医療費の負担も大変で、Faces 時代の仲間が援助することもあったそうです。

 Ronnie 自身はこの病気について「何が起こるかっていうと、ものが二重に見えてくるんだ。こいつは Multiple Sclerosis って呼ぶべきじゃない。Multiple Allergies って呼ぶべきだ。こいつはまさに次々と襲ってくるアレルギーの群れで、まったく気がつかなくても全身を緩やかに蝕んでいく。そしてゆっくりと、しかし確実に打ちのめしていくだろう。」と語っています。

 1991年に Steve Marriott が火災で亡くなっていますが、そのことを Kenny Jones が電話で伝えたとき、Ronnie は「ヤツがうらやましい」と言ったそうです。相当つらかったのでしょう。

 1992年、Ron Wood のオースティン公演に Ian McLagan とともにゲスト参加して "Ooh La La" を歌ったのを最後に、Ronnie が観客の前に現れることもなくなりました。その後、病状は悪化して外出もままならなくなり、1995年には気候が乾燥していてこの病気の療養に適しているコロラド州トリニダードへ転居します。そして1997年、Ronnie は同地で亡くなりました。

Nowhere To Run

 アメリカ時代の話。

 車椅子に頼らなければならない身になりながらも演奏活動を続けていた Ronnie 。時々、周囲の友人からのリクエストで "Rough Mix" に入っている "Nowhere To Run" を演奏することがありました(この曲は Ronnie が自分から演奏することは稀で、たいていは他人に頼まれた場合だったそうです)。そしてその演奏前に観客へ、こんなふうに曲を紹介したことがあったそうです。

 「ぼくの友達は "Nowhere To Run" を演ってくれって言うんだ。ぼくの友達の何人かがね、車椅子の男に向かって "Nowhere To Run" っていう曲を歌ってくれって言ってるんだ。」

 ・・・自分の病気をネタにしてウケを狙うとは・・・。

 別の公演でこんなことを言ったこともあったとか。

 「"Nowhere To Run"・・・。ぼくは歩くこともできないってのに。」

Six Years !

 Faces 解散後の1976年、Small Faces が再結成されています。これは主に Kenney Jones の提案によるものという話です。

 Ronnie も当初のリハーサルには参加していたものの、乗り気ではなかったらしくて、すぐに離脱しています。

 この件についての Steve Marriott の談話は次のとおり。

 「アイツは『タバコ買ってくる』って言ってフラッと出て行って、それっきりオレはアイツに6年も会えなかったんだ!」(6年ってことは "Majic Mijits" の制作の話が出る頃までずっと、ってことですよね)

 ・・・バックレですか。いけませんよ、Ronnie さん・・・。

L.M.S.

 Lane's Mobile Studio の略で Ronnie の移動録音スタジオのことです。 "One For The Road" のジャケット写真後方に写っているトレーラー(ちゃんと LMS と書いてあります)がそれ。

 旅先でもレコーディングできるようにと、米国・エアストリーム社のキャンピング・トレーラーに録音設備を搭載したもので、Ronnie の作品では "Anymore For Anymore" から "See Me" まで使われ続けました。

 1970年代には他のミュージシャンにも貸し出されていて、Led Zeppelin の "Physical Graffiti" 、Bad Company の "Bad Company" 、The Who の "Quadrophenia"・"The Who By Numbers" などのレコーディングに使われました。

 なお、 "Majic Mijits" でも使われていますが、その直後に経済的な事情のため Ronnie は L.M.S. を手放しています。

 驚いたことに L.M.S. は今(2021年)も健在のようで、現役の移動録音スタジオとして英国で使用されているようです! 1982年に Ronnie から現在の所有者に売却された後も、ずっと使われ続けているとのことです。30以上も前のものだけに、オーバーホールが必要になったこともあったようですが、外観は Ronnie が使っていた頃と変わっていないように見えます。

 現在の L.M.S. の姿はこちらで → 

Eric Clapton

 あまり知られてはいないようですが、Ronnie は Eric Clapton とも非常に仲がよかったそうです。Clapton は "Rough Mix""See Me" に参加していますし、 "The ARMS Concert" の開催にも尽力しています。また、Clapton の "Rainbow Concert" は Ronnie の L.M.S. を使って録音されています。

 前述の Lana さん(Lana さんの名付け親も Clapton!)によれば呑み友達で義兄弟の誓いまでしていたということです。Clapton が Slim Chance と演奏することもあり、音楽にあわせて Patti Clapton(当時の Eric Clapton 夫人にして元 George Harrison 夫人、そう、"Layla" です)と Lana さんのお母さんで Ronnie の奥さん Kate Lambert(いくつかの曲の共作者でもあります)がカンカン・ダンスを踊ったりしていたそう。

 1977年の Clapton の欧州ツアーには Slim Chance も同行しています。その列車移動の最中、Ronnie と Clapton は途中駅で即興演奏をして小銭稼ぎをしてたとか。

You're a bastard !

 Eric Clapton と Patti の結婚パーティーでのこと。やはり Lana さんの思い出話です。

 このパーティーは1979年に屋外で行われ、会場には大きなテントがいくつも設営されていたそうです。

 当然といえば当然ですが、お客の顔ぶれがまた豪華で The Rolling Stones のメンバー全員、John Lennon を除く The Beatles の元メンバー( John は当時、アメリカに住んでいたので招待されなかったのですが、後でこのことを知り「行きたかったのに」と文句を言ったとか)等々、もちろん親友の Ronnie もお呼ばれしていました。

 テントの一つには大きなステージが設けられていて、招待客がそこにあがっては演奏を披露していたとか。なかなかスゴい光景だったのではないでしょうか。

 テントには遊び道具が置いてある子供用のもあって、Lana さんは Mick Jagger の娘さんといっしょに一日中遊んでいたそうです。

 さて、この時会場に来ていた Paul McCartney がたまたま Lana さんの弟、つまり Ronnie の息子さんを膝の上に抱き上げてこんなことを訊きました。

 「僕のこと、誰だか知ってる?」

 Ronnie の息子さんは答えました。

 「うん、知ってる! 僕の父ちゃんが『あいつはロクデナシだ』って言ってた!」

The chart action

 Faces 脱退以降の Ronnie は残念ながら商業的にはそれ以前のような成功を獲得することができませんでした。そのため音楽チャートでの成績が話題に上ることも少ないのですが、まったく無縁だったというわけでもありません。Slim Chance のファースト・シングル "How Come" が英国チャートの第11位と好成績(ベストテン一歩手前というのが Ronnie らしいですが)、次の "The Poacher" が同第36位となっています。他はアルバムも含め、チャートには入っていないようです(残念)。

 ただし、Pete Townshend と組んだ "Rough Mix" は、その前後の時期に出たアルバムが軒並みベストテン入りするなど確固たる地位を築いていた The Who 人気によるものか、米国のアルバム・チャートで第45位となぜか小ヒット(英国アルバム・チャートでも第44位)。そのせいか、アメリカでは Ronnie は「 Pete Townshend とアルバムを作った人」として記憶されているような気がしないでもありません。渡米後のライブを収録した "Live In Austin" では "Rough Mix" から3曲と優遇されていますし。

 Ronnie が Austin に住んでいた頃はまだアルバムのCD化が進んでいなかったことも手伝って、アメリカで Slim Chance を聴いたことのある人は稀だったようですから、どうしてもそちらの方が印象が強いのかもしれません。

 おまけに Ronnie はアメリカに自分のアルバムを持ってこなかったので、Ronnie のバンドにいた Austin のミュージシャンでも Slim Chance の原曲を聴いたことのある人は少なかったという話です。

CD

 CD化といえば世界で初めて Slim Chance のアルバムがCDとして発売された国は・・・、なんと日本です!(当時の雑誌広告にとりあえずそう書いてありました)Ronnie の来日公演直前の1990年2月に "Ronnie Lane's Slim Chance""One For The Road" の2枚がCDで発売されています。

Title Etc.

 Ronnie は一度決めた曲名を変えてしまったり同じメロディを別の曲で使ったりといったことがよくあり(けっこう気紛れな人だったという評価もあります)、聴く側としては混乱します。なので、ちょっとここでタイトル変更等があった曲について整理してみようと思います。

Stone / Evolution

 Faces の1枚目、 "First Step" (1970年)収録の "Stone" は "Ronnie Lane's Slim Chance" (1975年)に再収録されていますが、そのちょうどその間の1972年に発表された Pete Townshend のソロ・アルバム "Who Came First" にも "Evolution" という題で収録されています。

 この流れからすると "First Step" の曲を改題して "Who Came First" へ、さらに元の題に戻して "Ronnie Lane's Slim Chance" へ、ということだったように思えますが、もともと "Evolution" は Meher Baba 財団のアルバム "Happy Birthday"(1970年)に収録されており、それが "Who Came First" に再収録されたというややこしい事情があります。そうすると "First Step" の "Stone" が改題されて "Evolution" になったのではなく、オリジナルが "Evolution" で後になって "Stone" に変更されたということになります。

 なお、Meher Baba 財団のアルバムに収録された Ronnie の曲としては "Just For A Moment" があります。1974年の "With Love" に収められているとのこと。これは本来映画 "Mahoney's Last Stand" のため1972年ごろ作られた曲でしたが、法的なトラブルにより映画の公開が延期されたことに伴い そのサントラ の発表も1976年になってしまったことから、結果的に "With Love" の方が先になりました。

Devotion / Tin And Tambourine

 同じく "First Step" 収録の "Devotion" 、この曲のメロディの一部は "Ronnie Lane's Slim Chance" の "Tin And Tambourine" でも使われています。歌詞は別なので注意。

I Came Looking For You / Last Orders Please / Well, Well Hello (The Party)

  Faces のCDボックスセット に入っている "I Came Looking For You" は1971年に一度だけ録音されたっきりの曲ですが、歌詞と題が変えられて同年のアルバム "A Nod Is As Good As A Wink... To A Blind Horse" の "Last Orders Please" として陽の目を見ています。さらに改題されて Slim Chance 時代のシングルB面曲として使われたのが"Well, Well Hello (The Party) "( "Kuschty Rye" 収録)。

C&W Number / Flags And Banners

  "Mahoney's Last Stand" のCDにはボーナストラックが追加されたものがありますが、その中の1曲 "C&W Number" は "Ooh La La" に入っている "Flags And Banners" と同じ曲です。ただし、ボーカル抜きですが。

How Long / How Come

 Slim Chance のファースト・シングル "How Come" は発売前 "How Long" という題だったそうです。

Catmelody / Rat's Tails

  "Rough Mix" (1977年)収録の "Catmelody" と同じ曲の別バージョンが Ronnie の死後に出た未発表曲集 "Tin And Tambourine" (1998年)ではなぜか "Rat's Tails" になっています。歌詞もほとんど同じなんですが。さらにその後に出た "Rocket 69" (2001年)では "Cat Melody (Rats Tails)" と担当者の困惑が伝わってくるようなタイトルにされています。なんとかしてやれ、Ronnie 。

Give Me A Penny / Annie

 やはり "Rough Mix" 収録の "Annie" は "Ronnie Lane's Slim Chance" の "Give Me A Penny" の改作です。1983年のインタビューで本人がそう答えています。

Bombers Moon / Rio Grande

 1981年に制作された "Majic Mijits" の曲 "Bombers Moon" は渡米後のライブを収録した "Live In Austin" では "Rio Grande" となっています。歌詞には「リオ・グランデを渡って~」という部分がありますし、アメリカではその方がなじみやすいと考えたのでしょうか。

Last Tango In NATO / Send It To NATO / Play It To NATO

 同じく "Majic Mijits" の曲 "Last Tango In NATO" は1999年に出た編集盤 "April Fool" では "Send It To NATO" となっています。 "Majic Mijits" にはCD1枚の通常盤とアウトテイクなどが入ったボーナスディスクが追加された2枚組特別盤の2種が出ていたのですが、特別盤のボーナスディスクには同じ曲が "Play It To NATO" と表記されていて・・・。共作者の Mick Green は自分のバンド The Pirates の1995年のアルバム "Rock Bottom" にこの曲を収録していますが、そちらの題は "Aramgeddon" に。うあ・・・。

Stay With Me Lord / Stay With Me Babe / Spiritual Babe

  "Live In Austin" には Ronnie がアメリカで作った曲 "Spiritual Babe" が入っていますが、これは元は "Stay With Me Lord" という曲名だったのを Ronnie 自身が「こんな題じゃ誰も買ってくれない」と思い直して "Stay With Me Babe" とし、さらに "Spiritual Babe" としたのだとか。妙なところで細かい人です。

 それにしても・・・、こんなにたくさんあるとは思いませんでした。

Austin

 Ronnie は1984年にアメリカはテキサス州・ヒューストンに移住し、さらに翌1985年には同州のオースティンへ引越ししています。渡米後の Ronnie の音楽活動は主にオースティンを拠点として行われたようで、当時の演奏を収録した "Live In Austin" が彼の死後の2000年に発表されています。

 オースティン市はテキサス州の中央部に位置し、同州の州都でもあり、人口65万人を抱える(2000年の統計による)大都市です。日本の大分市とは姉妹都市。亜熱帯気候に属し、夏は暑く冬は穏やかだそうです。経済的にはIT関連企業が多数進出しており、発展が続いているということです。メキシコと国境を接するテキサス州の街とあって、ヒスパニック系が住民の3割を占めて白人に次いで2番目に多く、流動的であったというオースティン時代の Ronnie のバンドのメンバーにもヒスパニック系らしき名前がいくつか見られます。

 日本人が行きたがるような観光の目玉は見当たりませんが、注目すべきは非常に音楽活動が盛んであること。オースティンの公式スローガンは "The Live Music Capital of the World" 、つまり「ライブ・ミュージックにおける世界の首都」で、演奏会場の数は人口比では全米一だそうです。Ronnie がこの街に魅かれたのもわかりますね。

 ここで過去活動していた、あるいは現在活動しているミュージシャンで著名なところを挙げると、カントリーの大御所 Willie Nelson 、Janis Joplin(!)、Stevie Ray Vaughan(オースティン市内に銅像があるそうです。)、Joe Ely( "The Passing Show: The Life and Music of Ronnie Lane" にも登場 )、Nanci Griffith 、Patty Griffin など。Ronnie の旧友 Ian McLagan もここが気に入ったらしく、1995年から現在に至るまでオースティンを拠点に活動しています。

 ちなみに "The Passing Show: The Life and Music of Ronnie Lane" のDVDボーナス映像に登場する Jody Denberg はオースティンの地元ラジオのパーソナリティで Ronnie の友人、Rich Brotherton もやはりオースティンで活動するミュージシャン、この街でも指折りのアコースティック・ギタリストとのことで Ronnie のバンドにも参加し Ronnie の日本公演時のメンバーでもありました。2人の演奏は "Live In Austin" でも聴くことができます。

20 Ponds

 Small Faces は1965年6月に結成されました。それから音楽興行などの事業を手掛けていた Don Arden(ポップス界のアル・カポネという異名があったとか)とマネージメント契約を結び、同年8月に Decca からシングル "Whatcha Gonna Do About It" でデビューという運びとなりました。

 さて、Don Arden との契約は「週給20ポンド+ Arden のオフィスがあったロンドン・Carnaby Street のブティックで好きなだけ服を買ってよい」というものだったそうです。服のことはともかく、今から40年以上前の20ポンドってどのくらいの価値があったんでしょうか?

 まず日本の総務省統計局のサイトの

というページから「外国為替相場」というデータ(エクセルファイル形式)をダウンロードして、1965年の円ポンド為替相場を調べてみますと当時1ポンドが1008円だったとありました。なので20ポンドは約2万円ということになります。

 次に当時の2万円は現在と比較してどのくらいの価値があったかということになります。これはいったいどうやって調べたものかとちょいと行き詰まってしまいましたが、たまたま参考になるサイトを見つけました。日本銀行のサイトに「教えて!にちぎん」というコーナーがありまして、そこになんと

というページがあったのです! 昭和40年はまさに1965年でドンピシャ! この疑問のために存在していたかのようなページです(笑)。

 詳細はそのページを見ていただくとして、過去の貨幣価値の比較はどういった基準を使うかによって結果はまちまちとなるため、実は難しい問題なのだそうですが、例として二つの指標が掲載されていましたのでそれをもとに見当をつけることにします。

 まず、企業物価指数によった場合の昭和40年(1965年)の貨幣価値は2020年の 2 倍であり、消費者物価指数(東京都区部)によった場合の昭和40年(1965年)の貨幣価値は2020年の約 4.2 倍となっています。

 現在の約 2.0 倍から約 4.2 倍ということなので、間を取ってとりあえず3倍としましょう。

 すると当時の20ポンドは2016年の約6万円。これは週給ですから日本人向けに月給に直すと25万円くらいですか。服代は賞与とみるとして(笑)、現在の日本の大卒サラリーマン勤続3~5年目あたりに相当するというところでしょうか。

 長期経済低迷下にあった当時の英国同世代の若者の平均的な収入に比べればいい稼ぎだったのかもしれません。しかし、すぐに人気者になったことや時に週7日公演、あるいは1日2公演といったキツいスケジュールで働かされていた(プロデューサーとして著名なアルバムを多く手がけたことで知られ、Ronnie とも交流があった Glyn Johns によれば、この頃、出演したTV番組の終了後、過労のため Ronnie が倒れてしまったことがあったそう)ことを考えると、けっして高給だったとはいえないようです。実際、その後 Arden との関係が悪化して両者決裂、Small Faces の Immediate 移籍という事態に至ったのもそのあたりが一因とか。

The Rolling Stones' Guitarist

 Faces 解散後、Ron Wood は The Rolling Stones に Mick Taylor の後釜として加入し、Mick Jagger と Keith Richards のケンカの仲裁などをしつつ(笑)現在に至っているのは周知のことですが、それ以前の Brian Jones 脱退の時も後任候補に挙がっていたこと(この時最終的に選ばれたのが Mick Taylor )はあまり知られていないようです。

 Mick Taylor の加入は1969年6月とされていますからそれ以前、Ron Wood が前述のとおり Ronnie たちと曲作りやリハーサルをしていた頃でしょう、後任ギタリストを探していた当時の Mick Jagger の頭に Ron Wood が浮かんだのは。

 打診すべくスタジオに入っていた彼の元に Mick が電話をかけたところ、幸か不幸か(笑)、たまたまその電話を受けたのは Ron Wood ではなく彼と行動を共にしていた Ronnie Lane さんでありました。

 「 Ron Wood は Stones に入る気は無いだろうか?」という Mick の問いに、Ron を持っていかれたくなかった Ronnie は本人に無断で「無理だね、ここを気に入っているから」と答えたそうな。

 Ron Wood はこのことを後年 Stones に加入するまで知らなかったそうです。

 ひとの就職(しかも超有名どころ)妨害しちゃって・・・、いいのか、Ronnie ?

Slim Chance's Bassist

 Slim Chance では常に Ronnie 以外の人物がベースを担当していました。不思議だと思いませんか? Small Faces 、Faces でずっとベースを務め、評価もされていた Ronnie がわざわざ別のベース奏者を自分のバンドに入れるなんて。

 Slim Chance にベース担当として加入した Steve Bingham も当初、そう思ったそうです。ですが、加入後、納得したそうです。

 「歌いながらベースを弾くのは難しいことだし、特に Ronnie の曲は歌詞が多くて、演奏の間、ほとんど歌いっぱなし。そうなるとベースの演奏は後回しにしたくなるよね。」