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開店休業の記

今日の本

藤原仲麻呂

 「藤原仲麻呂」(仁藤敦史:著 中央公論新社)、読了。

 奈良朝の一時期、権力を握ったものの最後は反逆者として斬られた貴族政治家・藤原仲麻呂(恵美押勝)の伝記です。

 名門に生まれ、叔母である光明皇后による重用をいいことに専横甚だしく、結局反乱を起こし敗死したということで、あまり評判の良くない人物ですが、本書では彼の功績にも光を当て再評価を試みています。彼の政策が後の時代に与えた影響は大きく、その点を無視すべきではないとのこと。

 また、いわゆる「藤原仲麻呂の乱」について、実態はむしろ孝謙上皇による権力奪回目的のクーデターであり、「孝謙上皇の乱」と呼ぶのがふさわしいとしています。

 「あとがき」で著者は「従来の類書がしばしば強調してきた、皇位継承のみに収斂する『政争史』や藤原氏の『陰謀史観』を極力排除した」としています。う〜む、それ、大事かも。

今日の本

レンブラントの身震い

 「レンブラントの身震い」(マーカス・デュ・ソートイ:著 冨永星:訳 新潮社)、読了。

 AIの急速な発展に実存的な危機感を感じた数学者である著者による、AI最前線探訪記、的な科学エッセイです。

 非常に秀逸な読み物で大変おもしろかったです。

 厳密な論理性が重要で抽象性の高い数学は、コンピュータととても相性が良さそうですものねぇ、著者の、いずれ失業しかねないという不安は確かに杞憂ではないかも。それを正直に吐露しつつAIがゲーム、絵画、音楽その他広い分野ですでに実現した業績を追いかける著者の姿勢には好感が持てます。

 それにしても、AIの話以上に、現代数学は複雑になりすぎて専門家でもその正当性の検証が困難になっているという現実が怖かったりして。

 AIが人間では手に負えない厄介な問題の解決策を提案してくれるのはいいとして、その解決策がほんとうに妥当なものなのか、それを検証するのもやはり困難で、AI研究の大きな問題の一つになっていると聞きますが、さて。

 最近のAIの急速な進展には、コンピュータに人間の指示した通りのことをさせるのではなく、コンピュータに大量のデータを食わせてコンピュータ自身に学習させる手法(機械学習)の貢献が大なのですが、そうすると必要なデータが手に入るか、あるいはコンピュータに食わせられる形のデータにできるのかが、その分野にAIが進出できるかどうかの鍵になりそう。それ次第で応用範囲が左右されるんでは。

 などと、いろいろ考えさせられる本でした。著者は他にも一般向けの著作があるそうなので、また読んでみよ。

今日の本

戦国佐竹氏研究の最前線

 「戦国佐竹氏研究の最前線」(日本史史料研究会:監修 佐々木倫朗・千葉篤志:編 山川出版社)、読了。

 このところ、興味深い研究成果を一般向けに出している日本史史料研究会の近刊です。今回は佐竹氏できましたか。渋いな。

 序章で触れられているとおり、関東の有力戦国大名でありながら知名度は今一つの佐竹氏、平安時代の武将・源義光以来という伝統ある家なのにねぇ。

 イマイチの要因の一つに戦国期東国の勢力分布にあることが察せられます。有力大名ではありましたが、東関東諸勢力の「盟主」という立ち位置であったことが、人目を引く「自己主張」の乏しさとなってややぼやけた存在感につながってしまった感も。

 豊臣政権下、新時代への対応を模索する姿や天下分け目の関ヶ原合戦前後の状況もおもしろい。

 今回も興味深い内容でした。

今日の本

ミャンマー政変

 「ミャンマー政変」(北川成史:著 筑摩書房)、読了。

 今年2月1日に起きたミャンマーのクーデター。曲がりなりにも民主化の方向へ進んでいるのではないかと思われていただけに、寝耳に水でした。

 本書は今年の7月に出たばかりなので、情報の鮮度は高いです。まず、クーデター前後のミャンマーの状況から入り、植民地から独立して現在に至るまでの歩み、多民族国家としての一面、国際社会の対応と、新書ですので紙幅に限りがある中、門外漢がとりあえずミャンマー情勢を知るための一冊としてはよくまとまっていると思います。著者は東京新聞・中日新聞のアジア担当経験のある記者。

 と、読んでいる間にも情勢は緊迫の度を増しているようで、反軍・民主派は武装蜂起へと踏み切る姿勢を見せており、内戦へ突入しかねない様子です。そうなれば悲惨な結果は目に見えるだけに、なんとかならないものか。

今日の本

北朝の天皇

 「北朝の天皇」(石原比伊呂:著 中央公論新社)、読了。

 先に題にツッコミ入れておきますと、南北朝合一後から応仁の乱前後までの天皇についても大幅に紙幅を割いて(全体のほぼ半分)取り上げてますので、「北朝期限定」ではないです。もちろん合一後の天皇はすべて北朝系ですので、まちがいというわけでもないのですが、念のため。

 なかなか、いいところに目をつけましたね。南北朝期の天皇というと、南朝側に注目が集まりがちで、北朝側は影が薄く、どんな人がいたのか知られていません。若い世代の研究者らしいというか。

 なるほど、名実ともに君主(=最高権力者)たることを目指したものの大方には受け入れられず消えていった南朝に対し、「名」はともかく「実」については目をつぶって武家に思いっきり依存することで生き残りに成功した北朝。そんな北朝の見ようによっては涙ぐましい処世術をご紹介、というものです。

 文体に「頼朝の武士団」と共通する匂いがあります。このへんも若手らしい。わたしはけっこう好きなノリなんですけど、人によって評価が分かれそう。

今日の本

子どもたちの階級闘争

 「子どもたちの階級闘争」(ブレイディみかこ:著 みすず書房)、読了。

 ここのところ、著者の本をよく読んでいます。今回、題に「階級闘争」なんてあるので政治向きの話かと思いきや、著者が勤務していた英国の無料託児所(著者曰く「底辺託児所」)の体験談です。

 かなり壮絶です。「まあ、外国の話だしね」と割り切って読むことも可能でしょうが、著者も時々言及する映画監督ケン・ローチ描くところの英国の社会問題が、日本とけっこう共通していることを考えると、あまり他人事だと思わない方がいいのかも。

 それに日本には日本の、別の壮絶さが、すでに存在しているのかもしれないし。日本の保育園の保育士の配置基準が、3歳児20人につき1人とか(英国は例外はあるものの3・4歳児8人につき1人だそう)、それで目が行き届くんでしょうか? 筆者も言うとおり、3歳児は侮れませんよ。

 園庭が狭いのか、公園で遊んでる保育園児集団を見ることがあります。彼ら、突然てんでバラバラにダッシュしたりするからコワいのよ。園児を確保すべく少人数で必死に走り回ってる保育士さんたちを見ると、なんとかしてあげた方がいいんじゃないかと思うわけですが、むしろ配置基準をさらに緩和することによって待機児童問題の解消につなげようっていう話もでているらしいです。不安。

 例によって、「アニー・レノックス」とか「スージー・スー」とかいう名前が形容で出てきます。

今日の本

家は生態系

 「家は生態系」(ロブ・ダン:著 今西康子:訳 白揚社)、読了。

 副題に「あなたは20万種の生き物と暮らしている」。これと表紙絵だけでザワザワしてきて、本を放り出して手洗いたくなる人が出てきそうですが。わたしは、まあ平気。

 家にそんなにたくさんの生物がいるのに、その生態がよくわかっていないものがほとんどとか。

 かつて、日本に「清潔すぎるのはよくない」と自分の体内でサナダムシ飼っていた寄生虫学者がおられましたが、あながちまちがっていなかったかもしれないなぁとか、前読んだ本に「一部の飼い主がネコを病的なまでに偏愛するのは、その人がトキソプラズマという微生物に感染していることが原因の可能性がある」とあったのも存外ホラ話でもなかったのかとか、そんなことを思いました。

 生物多様性の重要さを、決まり文句としてではなく、かなりの説得力を持って語っている本でもあります。

今日の本

鎌倉仏教

 「鎌倉仏教」(平岡聡:著 KADOKAWA)、読了。

 いわゆる鎌倉新仏教諸派について、特に「専修」(読みはセンジュ・他の修行法を排し、一つの修行法のみを選択すること)に注目して解説したもの。まずは専修の意義から入り、先行する平安仏教の代表者である最澄と空海の思想に触れ、続いて栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(法華宗)、一遍(時宗)を紹介していきます。

 著者は仏教研究者であり、浄土宗の僧侶でもあります。

 今ではいずれも仏教の代表的な宗派としてよく知られているので「異端」という言葉が使われるのはむしろ違和感がありますが、紹介されている諸派は開祖の時代にはその革新性により、平安以来の伝統仏教側から迫害を受けることも珍しくありませんでした。時代の要請により登場した諸派が試練に耐え、異端から正統の地位を獲得し得たのなぜか。開祖たちは単純な思いつきで「異端」の主張を始めたのではなく、いずれも深い仏教の学識を持ち、長く思想的な苦闘を続けた末にそこにたどり着いた結果としての主張であり、それゆえに逆境と歴史に耐え抜く強靭な思想に発展したとしています。特に易行(容易にだれでも実行可能な修行)である念仏や唱題を専修すべしと主張する基盤として、相当な理論武装が必要だったと著者は考えています。

 仏教思想や時代背景になじみがないとなかなか理解しにくいところはあります。しかし、鎌倉仏教をこの分量で俯瞰した内容、しかも一般向けとなると簡単ではないはず。好著。

今日の本

方向音痴って、なおるんですか?

 「方向音痴って、なおるんですか?」(吉玉サキ:著 交通新聞社)、読了。

 方向音痴のライター本人がその克服を目指し、識者のアドバイスを受けつつ実地に挑む、企画型エッセイ。サッと読めて、なかなかおもしろい。

 わたしは多分、方向音痴ではないと思います。気分で適当に進むので道に迷うことは少なくないけど、一人で自転車旅行とかしてます。方向音痴だったら無理でしょ?

 なので、方向音痴の人がどうしてそうなのかは謎でした。なるほど、こういう風に世界と地図が見えているわけですか。少しその感覚が理解できたかもしれません。

今日の本

古代日本の官僚

 「古代日本の官僚」(虎尾達哉:著 中央公論新社)、読了。

 律令体制下の官僚の勤務状況に焦点を当てた、ユニークな研究です。最近、日本史で従来とは異なる観点での研究が盛んのようで楽しい。

 しかし、現代的な基準でいくと、彼らの働きぶりはかんばしくないようです。

 天皇臨席の大事な儀式(朝廷的には)に、無断欠席者続出。特に下級官人に顕著。めんどうな仕事もバックレ。

 よくこんなことで統治システムが維持できたなと思うのですが、どうやらサボる連中が一定数いることを見越して体制を組んでいたようで。それはそれで問題あるような。

 規律を守らないならそれ相応の処罰をすべきでしょうが、そこも大甘だし、儀式に出席していない者の存在を「代返」で糊塗して儀式を成立させてしまうとか、いったい何をやってるんでしょうね。

 本書の副題に「天皇に仕えた怠惰な面々」とありますが、「怠惰」という風に言ってしまうのは、わたしは少々躊躇します。というのも、著者も指摘しているとおり、下級官人の出自はもともと儒教的官僚倫理の伝統などまるっきり持っていなかった古代日本の中小豪族、場合によっては一般庶民だったわけで、そうした人たちが法令に基づく規律正しき忠勤ができないからといって、「怠惰」はなんか気の毒。むしろ、それを求める方が「無茶」では・・・。

 日本の律令はご存知の通り、唐の律令をお手本にしているわけですが、初の統一王朝の秦以来とするならば、本家の中国でも800年以上の歳月をかけて試行錯誤して唐の律令にたどりついたのでありまして、それを手直しが入っているとはいえ、強引に導入してもなかなか一朝一夕には身につかなかった、結局身の丈に合わなかった、っていうのを強く感じさせられる本です。この前読んだ「平安京はいらなかった」もそうでしたね。律令と実態の乖離、というのはおもしろいテーマで、これからもいろいろ研究が出てきそう。期待してます。

 それと古代の人事官庁であった式部省が強い実力を持っていた、というのも興味深い話です。「組織の要諦は人事なり」などと現代の企業社会でも言われますが、それは古代も同じ?