『美学への招待』(佐々木健一:著 中央公論新社)、読了。
以前読んだ『近代美学入門』はおもしろい本でした。
同書の巻末には読んで美学に興味を持った人のための「読書案内」があり、そこに掲載されていたのが本書です。
では、と読んでみたのですが、これはかなり手強い。文章自体は難しくなく、ですます調でむしろやわらかな感じなのですが、様々な概念を畳み掛けるようにどんどん論じていくので、ついていくのが大変。この一読ではせいぜい2、3割しか理解できていないような気がします。ある程度わかったと思えるようになるには、数回読まないといけないんじゃないかという本です。
「美」という、本来言葉にし難いもの(わたしはそう思っていました)を探求するのも、その成果を文章にするのも簡単ではないのでしょうから、即効性のなさはしかたがないのかもしれません(ちなみに「言葉になるもの、ならないもの」という節もありました)。
ですが、ふだん深く考えることがない「美」について、改めて考える機会になったことは確かです。その意味で本書のタイトルは正しい。そうそう、藝術におけるタイトルの重要性についても本書で少し触れられています。
一番印象に残ったのは、第一章で早々に紹介されその後何度も繰り返し引き合いに出されるマルセル・デュシャンの『泉』の件です。彼はフランスのアヴァンギャルドの藝術家で、このタイトルをつけて藝術展に市販の便器を出品しました。美術史上の大事件だったそうです。「然るべき場所(展覧会場)に置かれれば便器もまた藝術になりうる」という反語的な問題提起であろうということですが、一般の認識するところの藝術、それなりの時間の経過の中で(上り下りはあっても)評価が定着しているそれとは異質のものだなと思います。その本質は美ではなく、衝撃性で、その「時代」と「場」にあってこそ藝術になりうるものだと。それはこうした反語的な問題提起が衝撃を与えられる時代だったからこその「藝術」で、一度出現すればその後は同じことをしても二度と「藝術」にはならないもの。『モナ・リザ』は便所に置かれても藝術でしょうが、『泉』が便所に置かれればただの便器。便所以外でもせいぜい粗大ゴミでしょう。その時代の展覧会場の類でしか「藝術」にならない藝術。
なんかパンクみたい。『美への悪態』なんて書名なんか、まさにそんな感じ。いや、逆か。アヴァンギャルドの影響下にあるのがパンクなのか。
これと関連して、「美」が藝術に必須のものではなくなり、無条件に価値があるという前提が崩れて、「美」の価値の根拠が問われるようになった、という美学の展開も興味深いです。