『アメリカン・マスターピース 準古典篇』(柴田元幸:編訳 スイッチ・パブリッシング)、読了。
以前読んだ『アメリカン・マスターピース 古典篇』の続編です。『古典篇』は2013年に出ていて、本書は去年。10年かかったのですね。
「編訳者あとがき」によればアメリカ小説の中でも「編訳者が長年愛読し、かつほとんどの場合は世に名作の誉れ高い作品」を集めた短篇集です。1919年から1947年までに発表された12篇を収録。
『古典篇』のときに、「時代がかった」仰々しさにはどうもなじめない、と書きましたが、こちらは時代が進んだことがあるのでしょう、そういう印象はなかったです。
一番手はシャーウッド・アンダーソンの「グロテスクなものたちの書」、たった5ページですが、キレ良し。
お次はアーネスト・ヘミングウェイの「インディアン村」。わたしはこれがヘミングウェイお初(ちょっと恥ずかしい)。彼の特徴とされる簡潔な文体は、『古典篇』とは明らかに時代が違うと感じさせます。
ゾラ・ニール・ハーストンの「ハーレムの書」、何これ!? おもしろいけど、翻訳者泣かせの文章ではなかったかと思われます。原文はどんなんだったんだろ?
イーディス・ウォートンの「ローマ熱」 は静かなる不穏。
ウィリアム・サローヤンの「心が高地にある男」も奇妙なお話。近現代の小説と文字のない時代のおとぎ話が入り混じったような不思議な一品。
デルモア・シュウォーツの「夢の中で責任が始まる」は、題にあるように登場人物が見た夢についての話ですが、なるほど、夢を小説で語るならこのくらい工夫しないとね。
コーネル・ウールリッチの「三時」はサスペンス劇。本書収録作品中、エンターテイメント性という点なら一番かな。ウールリッチってどっかで聞いたな、と思ったら『短編ミステリの二百年 1』にも入ってました。あちらもサスペンス。そういうのが得意な人だったらしいです。
続くウィリアム・フォークナーも『短編ミステリの二百年 1』に入ってました。「納屋を焼く」、ハッタリもてらいもなく、当たり前のようにふるわれる暴力。
F・スコット・フィッツジェラルドの「失われた十年」、なんとなくひかれるものもあるけど、これはよくわかりませんでした。
ラルフ・エリスンの「広場でのパーティ」、胸がムカつくような描写・・・、でも、これ、単なるフィクションじゃないんだよね、きっと。そこが怖ろしい。
ユードラ・ウェルティの「何度も歩いた道」、わたしも知らない場所を歩いているときはこんな風かも(苦笑)。
最後にネルソン・オルグレンの「分署長は悪い夢を見る」。
ネルソン・オルグレンは本作の中で一番読みたかった人です。カート・ヴォネガットの年上の友人であり、大学の創作講座の講師仲間であり、ヴォネガットの『死よりも悪い運命』等収録のエッセイにも登場する人物です。ずっと読んでみたかったのですが、邦訳はみな、だいぶ前に絶版になっているようでこれまで機会がありませんでした。ありがたい。
歯切れのよい文章。暗い、どうしようもなさと救いのなさの中にもある、乾いた可笑しさを探し当て、取り出して見せてくれる、という感じ。気に入りました。もっと読みたい。
『古典篇』よりずっと楽しめました。
なお、本作の後、『現代篇』が出る予定だったはずですが、「編訳者あとがき」によると、収録したい作品が多すぎるため、当初『準古典篇』にまとめるつもりだったのを、本書と『戦後篇』に分割して出すことにしたとのこと。『戦後篇』、期待しましょう。