メニュー 蕭寥亭 検索

開店休業の記

今日の本

安楽死が合法の国で起こっていること

 『安楽死が合法の国で起こっていること』(児玉真美:著 筑摩書房)、読了。

 書名から予想される通りの重い内容で、読むのに時間がかかりました。

 著者は家庭内介護者団体の代表理事で著述家。

 3部構成で、第一部が書名のとおり、すでに安楽死(重篤の状態にある人に対し治療を控えることにより、結果的に死期が早まる尊厳死とは異なり、薬物投与などにより「積極的に」死に至らしめることを指します)が合法化された国(スイス・オランダ・ベルギー等、本書執筆時点で欧米を中心に10カ国ほど)の実状報告。

 第二部は、安楽死合法化とは別に徐々に広がりをみせている「無益な治療」論、専門家である医療側がこれ以上の治療に意味がないと判断した場合、重篤の患者やその家族に継続の意志があっても、一方的に治療中止を決定できるようにすべきとする見解について検討していきます。

 第三部は、重い病気や障害で苦しむ人・その介護をする家族と医療側の関係を考えます。

 本書を読む以前、わたしは、個人の権利としての尊厳死・安楽死に対しては肯定的な方でしたが、その一方で、合法化となれば弱い立場にある人たちに対しては権利ではなく社会的な圧力として働いてしまうのでないかという懸念は拭えず、全面的な肯定はしきれない気持がどうしても残っていました。本書を読むとそれが単なる杞憂ではなく、現実となってしまっていることに暗澹たる思いです。さらには移植用臓器の供給のため、安楽死が「促進」されるような傾向すら垣間見えるとあっては・・・。

 「無益な治療」論の前提には、QOL(クオリティ・オブ・ライフ):「人生の質」の観点から患者の最善の利益を図るなら、ということになっているのだそうですが、その基準を医療側が一方的に設定するというのは、わたしも釈然としません。医療者は医療の専門家であっても、「人生」について一般の人より理解しているとは言えないでしょうし、「人生」についてはそれぞれ当人が主体的に判断する問題のはずです(だからこそ、個人の権利としての尊厳死・安楽死に対しては肯定的なのですが)。

 以前、『ドナーで生まれた子どもたち』を読んだ時も感じたことですが、相手が高度な能力を持つ専門家であっても、その専門分野はともかく、その倫理観まで安易に信頼すべきではないのだなと思います。

 自ら死を選ぼうとする人のほとんどは、死そのものを渇望しているのではなく、耐え難い苦痛から逃れる手段として考えているはず。そうした人に対して必要なのは、短絡的に「じゃあ、死んでみてはいかがでしょう?」と勧めることではなく、まずその苦しみを軽減できるよう努めていくこと、とする著者の意見はそのとおりだと思います。簡単ではないのでしょうが。